桶狭間の戦い。 永禄3年(1560年)に尾張国桶狭間(現在の愛知県名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる地域)で行われた、今さら説明するまでもない日本史上の一大有名合戦である。
以前の通説では、「上洛を目指して尾張に侵入した今川義元の大軍2万5000騎を、兵力わずか2000~3000騎の織田信長軍が狭い谷間で、雨に紛れての奇襲によって倒した戦争」とされていた。
しかし昨今では『信長公記』など史料の見直しにより、「義元は上洛を目的としたわけではなく、そして信長は奇襲したわけでもない。さらには窪地ではなく『おけはざま山』という丘の上にいた義元を、雨に紛れてではなく『雨が上がってから』襲って勝利した」というのが新たな定説となりつつある。
そのどちらが本当に正しいのか、真相は藪の中である。なにせ新聞もカメラもスマホもなかった450年以上前の出来事ですからね。しかしいずれにせよ、ここでは「もしも信長軍が騎馬や歩兵で攻めるのではなく『車に乗って』義元を攻めるとしたら、どんな車種を選んだだろうか?」ということを考えてみたい。荒唐無稽な設定ではあるが、そこから現代の車選びに関して何らかの気づきを得ることはできるはずだ。
さて、最近では否定されつつあるが、まずは従来からの「窪地における雨の中の奇襲説」に基づき車両を選定してみよう。
まずはじめに考えなければならないことは、たとえどんなシチュエーションであったとしても「戦闘用車両はヘビーデューティで頑丈なモノでなければならない」という、ごく当たり前の事実だ。
その観点でいくと、信長軍の戦闘車両はメルセデス・ベンツのGクラス、あるいは各国大統領などのVIPも公務に使用している同メルセデス・ベンツのSクラスあたりが筆頭候補となるだろうか。似たようなクラスのBMWやトヨタ・センチュリーなども悪くないが、こと「頑丈さ」という面ではメルセデスに一日の長がある。
しかし「窪地でGクラス」「谷間でSクラス」というのは機動性において著しく不利である。つまり小回りがきかない。もっとコンパクトな戦闘車両を使用しないと、軍は機能不全に陥ってしまうだろう。とはいえスマートやAクラスではさすがに小さすぎる。
となると、適切なのはメルセデス・ベンツEクラスまたはCクラスとなるだろう。そして「窪地」ということを考えると、より小さな、しかし必要十分な人員と装備を載せることが可能なCクラスこそが適任となる。
そしてこれらすべてのことは「永禄3年の桶狭間」という戦場だけでなく、現代のさまざまな戦場(イオンの駐車場、東名高速の高速コーナー、六本木ヒルズ周辺の一般道等々)においてもその威力を発揮する。後顧の憂いなく選べば良い。必ずやさまざまな局面で勝利を収めるだろう。
そして現在主流の定説となりつつある「おけはざま山の上にいた義元を、雨が上がったのちに正面から襲って勝利した」という説を採用した場合はどうだろうか?
これもまた、Cクラスを選んでさえおけばほぼ間違いなく勝利を手中にできる。「山の上」という単語に反応してついGクラスなどを選びたくなる人もいるだろう。その気持ちは筆者もよくわかるし、実際Gクラスは山岳地帯で非常に素晴らしい戦闘能力を発揮する。
しかしGクラスは必要ないのだ。なぜならば、窪地の場合と同様にCクラスは「万能兵器」だからである。。
Gクラスほどではないにせよ、しかし他社のモデルと比べればCクラスは十分以上にヒルクライムを得意とし、それでいて前述のとおり高速道路や市街一般道でも平均値を著しく上回る能力を発揮し、頑丈で、邪魔にならないサイズで、そしてデカいGクラスやSクラスと比べれば燃費性能も非常によろしい。
「腹が減っては戦はできぬ」と昔からいうが、さまざまな実戦において戦闘車両や戦闘機は「ただ火力が強ければそれ良い」というものではない。「その威力を、ある程度の長期にわたり、補給のないまま運用できる」という特性も重要となるのだ。その意味でも桶狭間におけるメルセデス・ベンツCクラスは、太平洋戦争初期における旧日本海軍の零式艦上戦闘機(いわゆるゼロ戦)と同様に有能なのである。
以上のとおり、織田信長が仮に自動車を用いて桶狭間の戦いに臨むのであれば、メルセデス・ベンツCクラスの歴代モデルこそがもっとも合理的な選択肢であると筆者は考える。なぜならば、繰り返し述べてきたとおりCクラスは「コンパクトで万能」であるからだ。
そしてそれは、「現代社会という戦場」においても絶大なる威力を発揮する特性であることは、言うまでもない。